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相手のため?自分のため?




ここ数カ月で一番気にかかっていた

父の体力がかなり回復してきました。


ベッドから10歩に満たない距離でも 「脚が痛くてトイレまで歩けない」と車いすを手配してから3か月。 途中調子が良くなって油断し、転倒して怪我をしたこともありましたが、 病院内で車いすを歩行器代わりに押して しっかりと自分の足で歩けるようにまでなってきました。


また、薬の副作用で吐き気を催すようになり、 食事が食べられなくなった時はこのまま衰弱していくのではと心配しましたが 今では配食のお弁当をぺろりと食べ 足りなくて母からご飯を分けてもらうほどに回復しました。


今思うと、転倒の原因となったふらつきも薬の副作用だったのかもしれません。 一時期に比べ意識もはっきりして、 目に見えて元気な様子に心の底から安堵しています。


 

ところで、父は良く言えば楽天的、 悪く言えば楽しいと調子に乗ります。 また、自分の身体の声をほとんど聴きません。


なかなか寝付けず、睡眠導入剤を処方してもらっているのに 海外のゴルフや野球が見たくて平気で明け方までTVを見ますし、 車いすが来た時も「これで自由に外出できる!」と喜んだのもつかの間、 実際は思うように車いすを操れずがっかりしていました。 (私にもそういうところがあるので、やっぱり父娘は似るんだなぁと思っています)


極めつけは、脚が悪くて整形外科に行っているのに 突然「首も診てほしい」と父がリクエストしたこと。 30年以上も前に首が悪くなって大好きだったゴルフをやめたのですが できれば再開したいと思ったようです。

やめる直前にシングルを切った通知ハガキを持ち歩いていました。


先生に「(年の割には)それほど悪くないですよ」と言われ 「ゴルフができる!」と大喜びする父。

(…いや、そういう意味じゃないと思うよ) 帰り道に車いすに乗りながら「どこの練習場に行こうか」 「クラブを売っぱらっちゃったからどうしよう」と心配しています。 (…まず脚の痛みを心配しようよ) 父の気持ちもわかりますが…突っ込みどころが満載です。


実際、他にも身体的な問題があるので、

ゴルフができるようになるかどうかは正直厳しいところ。 母は「できるわけないでしょ!」とまったく取り合いません。 母に共感を覚えつつ、でも本人の意欲を削がないように 「そのためにもまずは自分の脚で歩けるようになるのが目標だね!」と声を掛けましたが 父に呆れ、失笑を感じたことは否めません。


 

そんな父が、次の通院の際に 「車いすなしで大丈夫!」と言い出しました。

調子が良くなってきたので、その日は駅前まで一緒に買い物に行った後、

病院を2つ掛け持ちする予定にしていました。

前回の様子から、歩けなくはないかもしれないと思いつつ、 これまでの経験から父の言葉は半信半疑、心配が先に立ちました。


「でも、その行程はさすがに距離が長すぎるんじゃない?」 「いきなりハード過ぎない?」

「途中で足が痛くなって、倒れたり動けなくなったりしちゃうかもよ?」


でも、父は「大丈夫、行ける」 「この前転んだから、もうわかる、大丈夫」と改めません。 どうなっても本人の責任、最悪私が負ぶって運ぶか 救急車を呼ぶことも厭わない、と覚悟を決めて了承しました。


結果として、父は歩き切りました。 最後はタクシーかバスを想定していた道のりも 若干足を引きずりながら完歩しました。 帰宅後、本人は「少し足が痛いけど、気持ちのいい痛みだ」と笑ってました。

きっと、チャレンジをやり切った満足感を味わっていたのではと思います。


 

改めて感じたことは 自分の行動を選択するのも、その結果を受け取るのも本人であるということ。


コーチとしてクライアントに当たり前に求めている態度ですが 親に対してクライアントのように接することは私にとってはチャレンジでした。 自分の中にある不安や心配、期待、応援する気持ちなど、

様々な感情を味わい、それに対峙/対処した経験でした。



あなたが良かれと思ってやっていることは

本当に相手のためですか?それとも自分のためですか?



コーチとしてだけではなく、普段から実践できていること。

それが私にとってコーチとして成長しているかの基準です。 介護からも学びの機会をいただいていることに父に感謝したいと思います。



それではまた!


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